稲作と日本人



稲作と日本人


焼き畑稲作
稲作の開始:縄文時代後期

    日本国内に稲の祖先型野生種が存在した形跡はないことから、揚子江中流地域において栽培作物として確立してから、栽培技術や食文化などと共に伝播したものと考えられている。
イネの原産地は2017年のDNA解析の結果、約1万年前の中国長江流域の湖南省周辺地域と考えられている。

イネには、ジャポニカ(日本型)とインディカ(インド型)などの亜種があるが、長江流域にある草鞋山遺跡のプラント・オパール分析によれば、約6000年前にその地ではジャポニカ米が栽培されており、インディカ米の出現はずっと下るという。野生稲集団からジャポニカ米の系統が生まれ、後にその集団に対して異なる野生系統が複数回交配した結果、インディカ米の系統が生じたと考えられる。

    ジャポニカはさらに、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカに分かれる。
温帯ジャポニカは、中国の長江北側から、日本列島というごく限られた地域に水稲農耕と密接に結びついて分布している。弥生時代以降の水稲も温帯ジャポニカであるとされている。一方、プラント・オパール法による研究により、縄文時代後期から晩期にかけては熱帯ジャポニカの焼畑稲作が行われていたことが判明している。(プラント・オパールは、植物の細胞組織に充填する非結晶含水珪酸体。)
この熱帯ジャポニカは、南西諸島を通って列島に伝播した。 縄文時代のイネは、炭化米が後期後半の熊本県や鹿児島県の上野原遺跡などから検出されており、籾跡土器の胎土から検出されたイネのプラント・オパールは、後期後半の西日本各地の遺跡から発見されている。

    このように、縄文時代後期後半の日本列島でイネが栽培されていたことは間違いない。ただ、イネが単独で栽培されていたわけでなく、オオムギ、ヒエ、キビ、アワ、ソバなどの雑穀類の栽培やアズキ、大豆なども混作されていたものと思われる。

    紀元前5世紀中頃に、大陸から北部九州へと水稲耕作技術を中心とした生活体系が伝わり、九州、四国、本州に広がった。
初期の水田は、佐賀県唐津市の菜畑遺跡、福岡県の板付遺跡、那珂遺跡群(福岡市博多区)、江辻遺跡群(糟屋郡粕屋町)、曲り田遺跡(糸島市)、野多目遺跡群(福岡市南区)などで水田遺跡や大陸系磨製石器、炭化米等の存在が北部九州地域に集中して発見されている。弥生時代のはじまりである。
弥生時代(やよいじだい)は、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたり、採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。縄文時代晩期にはすでに水稲農耕は行われているが、多様な生業の一つとして行われており弥生時代の定義からは外れる。

    弥生時代後期後半の紀元1世紀頃、東海、北陸を含む西日本各地で広域地域勢力が形成され、2世紀末畿内に倭国が成立。3世紀中頃古墳時代に移行した。
水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作った。集落は、居住する場所と墓とがはっきりと区別するように作られ、居住域の周囲にはしばしば環濠が掘削された。道具は、工具や耕起具、調理具などに石器を多く使ったが、次第に石器にかえて徐々に鉄器を使うようになった。青銅器は当初武器として、その後は祭祀具として用いられた。また、農具や食膳具などとして木器もしばしば用いられた。

    弥生時代には農業、特に水稲農耕の採用で穀物の備蓄が可能となったが、社会構造の根本は旧石器時代と大して変わらず、実力社会であった。
すなわち水稲農耕の知識のある者が「族長」となり、その指揮の下で稲作が行われたのである。また、水稲耕作技術の導入により、開墾や用水の管理などに大規模な労働力が必要とされるようになり、集団の大型化が進行した。

大型化した集団同士の間には、富や耕作地、水利権などをめぐって戦いが発生したとされる。
このような争いを通じた集団の統合・上下関係の進展の結果としてやがて各地に小さなクニが生まれ、1世紀中頃に「漢委奴國王の金印」が後漢から、3世紀前半には邪馬台国女王(卑弥呼)が魏に朝貢し、倭国王であることを意味する親魏倭王の金印を授けられた。

 

稲作の伝播

中国での伝播
  中国では紀元前6000年から紀元前3000年までの栽培痕跡は黄河流域を北限とした地域に限られている。紀元前3000年以降山東半島先端部にまで分布した。
日本への伝来 日本では陸稲栽培の可能性を示すものとして岡山の朝寝鼻貝塚から約6000年前のプラント・オパールが見つかっており、また南溝手遺跡からは約3500年前の籾の痕がついた土器がみつかっている。
水田稲作に関しては約2600年前の菜畑遺跡の水田跡がある。水田稲作の伝来経路としては従来『朝鮮半島経由説』『江南説(直接ルート)』『南方経由説』の3説があり、現在も議論が続いている。
なお、稲のプラント・オパールは20~60ミクロンと小さいため、即座に発見地層の年代を栽培の時期とすることはできないが、鹿児島県の遺跡では12,000年前の薩摩火山灰の下層からイネのプラント・オパールが検出されており、これは稲作起源地と想定されている中国長江流域よりも古い年代となっている。
朝鮮半島への伝来 遼東半島で約3000年前の炭化米が見つかっているが、朝鮮半島では稲作の痕跡は見つかっていない。水田稲作に関しては約2500年前の水田跡が松菊里遺跡などで見つかっている。研究者の甲元は、最古の稲作の痕跡とされる前七世紀の欣岩里遺跡のイネは陸稲の可能性が高いと指摘している。
東南アジア、南アジアへの伝来
東南アジア、南アジアへは紀元前2500年以降に広まった。その担い手はオーストロネシア語族を話すハプログループO-M95 (Y染色体)に属する人々と考えられる。
西アジアへの伝来 トルコへは中央アジアから乾燥に比較的強い陸稲が伝えられたと考える説や、インドからペルシャを経由し水稲が伝えられたと考える説などがあるが、十分に研究されておらず未解明である。



気候変動による食糧事情の変化

     これら温暖化による植生の変化は、寒冷地生息の大型哺乳動物の生息環境を悪化させ、約1万年前までには、日本列島からこれらの大型哺乳動物がほぼ絶滅してしまった。
このため、旧石器人は狩猟により得られた獣肉を主食とするスタイルから、狩猟・漁労に加えて堅果など植物質食料を組み合わせた食習慣へ変化せざるを得なくなった。そしてこの急激な気候の変化による住環境の変化は、環境に対応した道具を次々に考案させ、狩猟・植物採取・植物栽培・漁労の3つの新たな生業体系をもとに生産力が飛躍的に発展させることになる。

    例えば、植物の多くは収穫時期が限られるために貯蔵する必要があり、堅果を食用とするためには加熱・粉砕・煮込みなど加工過程が必要となり、植物質食料の調理・保管器具としての土器の使用が始まったと考えられる。
また、狩猟生活から採集生活への転換は、住環境の変化にも影響を与えた。哺乳動物を狩猟対象としキャンプ生活を営みながら頻繁に移動を繰り返していたが、台地・段丘・丘陵・高原などの見晴らしの良い洪積世の台地縁辺の洞穴や岩陰を住みかとして利用するようになった。
  そしてそこには日常生活の場としての拠点遺跡、獲物の解体場遺跡、石器製作場遺跡などの特徴がある。大阪府藤井寺市のはさみ山遺跡の住居はよく知られている。

このような採集経済の変化による食料の調達の多様性により、日本列島における人口も増加してきたと思われる。下表は発掘された遺跡と推定居住人口をベースに集計された縄文時代以降の日本の人口の推計である。

 

日本の旧石器時代

    日本列島の旧石器時代は、人類が日本列島へ移住してきた時に始まり、終わりは1万6000年前と考えられている。無土器時代、先土器時代ともいう。
    終期については青森県外ヶ浜町大平山元遺跡出土の土器に付着した炭化物のAMS法放射性炭素年代測定暦年較正年代法では1万6500年前と出たことによる。
  日本列島での人類の足跡も12万年前(島根県出雲市多伎町砂原 砂原遺跡)に遡る。この時代に属する遺跡は、列島全体で数千ヵ所と推定されている。 地質学的には氷河時代と言われる第四紀の更新世の終末から完新世初頭までである。ヨーロッパの考古学時代区分でいえば後期旧石器時代におおむね相当する
    日本の縄文時代は19000年前の最終氷期の最寒冷期後の解氷による海水面の上昇「縄文海進」が進んだおよそ1万3000年前からと定義できる。(図は縄文時代の大阪湾)

    しかし、温暖化した気候に併せて木の実の採取や植林の痕跡は見られるようになったものの、これを「農耕」としては定義できておらず、また「牧畜」文化も発見されていないため、日本で新石器時代の語を定義するのはふさわしくないともされている。
日本では紀元前3世紀頃の青銅器が見つかっているが実用ではなく祭祀用として普及しているのみで、また鉄器についても日本での鋳鉄の技術の確立は6世紀頃まで待たなければならず、次時代の定義が他の地域とはやや異なる。これに代わり、日本での編年には土器がよく利用され、「縄文」「弥生」の名称は土器に因んでいる。石器としては縄文時代では打製石器に加え磨製石器の石斧や石棒が現れている。


縄文時代


縄文時代は、世界史では中石器時代ないしは、新石器時代に相当する時代である。旧石器時代と縄文時代の違いは、土器と弓矢の発明、定住化と竪穴式住居の普及、貝塚の形成などが挙げられる。

    始期と終期については多くの議論があるが、まず始期に関しては一般的に16,000±100年前と考えられている。終期は概ね約3,000年前 とされる。

    地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、終期について地域差が大きいものの、定型的な水田耕作や金属器の使用を特徴とする弥生文化の登場を契機とする。その年代については、紀元前数世紀から紀元前10世紀頃までで、多くの議論がある。 沖縄県では貝塚時代前期に区分される。次の時代は同地域では貝塚時代後期となり、貝塚文化と呼ばれる。
東北北部から北海道では他地域に弥生文化が登場した後も縄文時代の生活様式が継承されたため、縄文時代の次の時代を続縄文時代と呼ぶ。


弥生時代

    弥生時代は、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる。
採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。縄文時代晩期にはすでに水稲農耕は行われているが、多様な生業の一つとして行われており弥生時代の定義からは外れる。

    2003年に国立歴史民俗博物館(歴博)が、放射性炭素年代測定により行った弥生土器付着の炭化米の測定結果を発表し、弥生時代は紀元前10世紀に始まることを明らかにした。弥生時代後期後半の紀元1世紀頃、東海、北陸を含む西日本各地で広域地域勢力が形成され、2世紀末畿内に倭国が成立。3世紀中頃古墳時代に移行した。

    「弥生」という名称は、1884年(明治17年)に東京府本郷区向ヶ岡弥生町(現在の東京都文京区弥生)の貝塚で発見された土器が発見地に因み弥生式土器と呼ばれたことに由来する。当初は、弥生式土器の使われた時代ということで「弥生式時代」と呼ばれ、その後徐々に「式」を省略する呼称が一般的となった。

    そもそも弥生時代とは、弥生式土器が使われている時代という意味であったが、弥生式土器には米、あるいは水稲農耕技術体系が伴うことが徐々に明らかになってくると、弥生時代とは、水稲農耕による食料生産に基礎を置く農耕社会であって、前段階である縄文時代(狩猟採集社会)とはこの点で区別されるべきだとする考え方が主流になっていった。
    そのような中、福岡市板付遺跡において、夜臼式土器段階の水田遺構が発見され、従来縄文時代晩期後半と考えられていた夜臼式土器期において、すでに水稲農耕技術が採用されており、この段階を農耕社会としてよいという考えが提出された。

その後、縄文時代と弥生時代の差を何に求めるべきかという本質的な論争が研究者の間で展開され、集落の形態や墓の形態、水田の有無、土器・石器など物質文化の変化など様々な指標が提案された。

    現在ではおおよそ、水稲農耕技術を安定的に受容した段階以降を弥生時代とするという考えが定着している。従って、弥生時代前期前半より以前に(夜臼式土器に代表されるような刻目突帯文土器と総称される一群の土器形式に示された)水稲農耕技術を伴う社会が(少なくとも北部九州地域には)成立していたとされ、従来縄文時代晩期後半とされてきたこの段階について、近年ではこれを弥生時代早期と呼ぶようになりつつある。

    なお土器についた穀物圧痕の研究が進み、稲作技術は、遅くとも縄文時代後期までには列島にもたらされていたことが分かっている。また、水稲農耕の導入についても北部九州の一部地域では縄文晩期前半にまでさかのぼる可能性が指摘されているが、明確な遺構が発見されておらず、推測の域を出ない。

 

  

 

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