日本の黎明期 Creation of JAPAN


日本の黎明期

日本列島誕生(530万年前)


  日本列島は、地質学的には、ユーラシアプレートの東端および北アメリカプレートの南西端に位置する。これら2つの大陸プレートの下に太平洋プレートとフィリピン海プレートの2つの海洋プレートが沈み込む運動によって、約3400万年前には日本列島に当たる部分は大陸の一部となるが後に日本海となる地溝帯が拡大し、530万年前ころ大陸から切り離され弧状列島になったと考えられている。


  約500万年前から約258万年前までの期間を、地質時代では(鮮新世:Pliocene)と区分している。このころ、パナマ地峡が形成され、インド大陸の衝突移動によりヒマラヤ山脈の上昇が激しくなった。

  一方、気候は寒冷化しており、南極大陸はさらに氷床を拡大していた。  北半球での氷床の発達もこの時代に既に始まっていた。ヒマラヤ山脈などの大山脈の形成、上昇が同時に激しい岩石の浸食を招き、これによって大量のカルシウム塩が海に流入していった。このカルシウム塩が二酸化炭素を吸収し石灰岩化していったため大気中の二酸化炭素量は激減していき、寒冷化の進行を促した。


  このころまでに、現代の動物相につながるものがほぼ出現している。寒冷化に伴い、長鼻目(ゾウ類)などの温暖な環境で繁栄してきた生物は多様性を減少させていった。

類人猿をはじめとする霊長目(サル類)も全体的に生息域や多様性を減少させるも、その中からヒトの祖先(ヒト亜族)がこの時代に誕生、発展した(いわゆる猿人)。


  南米大陸が北米大陸に繋がったことで、多くの生物の両大陸間の行き来が可能になった。これによって北米の生物との生存競争にさらされた南米原産の生物は衰退し、絶滅したものも多かった。
約258万年以降、寒冷化が一層進み、約1万年前までの期間(更新世Pleistocene)は、ほとんどは氷河時代であった。(氷河時代とは、地球の気候が寒冷化し地表と大気の温度が長期にわたって周期的に低下し、極地の大陸氷床や高山域の氷河群が存在または拡大する時代のこと)。



  この間、大陸の形は現在とほとんど変わらないが、氷期・間氷期の氷床の拡大・縮小による海水準変動に伴って、海岸線の位置が移動した。更新世の後期では海水準にして百数十メートルの変動があった。
    この海水準がもっとも低下した時代、東南アジアでは現在の浅い海が陸地「スンダランド」(Sundalandとは、現在タイの中央を流れるチャオプラヤー川が氷期に形成した広大な沖積平野の呼称)を形成しており、アボリジニの先祖たちはスンダランドと大陸の間の群島伝いにサフールランド(現在のオーストラリア)へと渡っていった。

  海水準が低下した時期は、現在浅い海である海域の多くが陸地となっている。氷期と間氷期を繰り返した。総計で15回の氷期があったと推定される。その主たる要因は地球の回転軌道の性質からもたらされる変化のために生じる太陽放射量の周期的な変動である(ミランコヴィッチ周期)とされる。

  ヒト属が進化(原人ほか)し、現生人類(ホモ・サピエンス種)も70万年前頃に出現。20万年前ころまでの間にヒト亜族の大半が絶滅。最終的に現生人類のみが生き残った。
最終氷期の約2万年前の最盛期が過ぎると地球規模で温暖化に向かった。最後の氷期である晩氷期と呼ばれる約1万3000年前から1万年前の気候は、数百年で寒冷期と温暖期が入れ替わるほどで、急激な厳しい環境変化が短期間のうちに起こった。

 

  1万年前には、大陸ヨーロッパにおける氷床が消滅し、これをもって地質時代区分では完新世(Holocene)の始まりとする(現代を含む)。
気候環境が一転して地球全体が温暖化し、氷河がモレーン(堆石)を残して後退した。地球各地が湿潤化して森林が増加、逆に草原が減少して寒冷地で生息するマンモスやトナカイなどの大型哺乳類の生息環境が縮小し、彼らを絶滅させた。
  期間が短いため大規模な大陸の移動などはないが、完新世の初期には、大陸氷床の融解によって海面が130m以上急激に上昇した。

 

チバニアン

国際地質科学連合は、2020年1月17日、千葉県市原市にある地層が約77万4000年前から12万9000年前までの地質時代の始まりを明確に示していると認定し、この時代をチバニアンと呼ぶと決めた。

「チバニアン」とは、ラテン語で「千葉時代」のことであり、その時代の地層が「地球上で当時を最も観察・研究しやすい場所(=模式地)」に露出していることが認定されたことになる。

この地層は、千葉県養老川沿いに露出している地質時代呼称「新生代更新世中期」の地層である。

この特徴は鉱物に残存する磁気を測定して地磁気逆転が確認されていた。つまり、地磁気のS極とN極は、過去に何度も逆転したことがわかっており、最後の逆転が起きたのが地質時代「中期」の始まりとされる。

そして、地磁気逆転がおきた時期に近くの御嶽山が大噴火し、そのときの火山灰の堆積層が白く見えて、ここは77万年前は海底で、火山灰は静かにまんべんなく降り積もったということがわかる。

なお、世界でこの時期の地層を連続して観察・分析できる場所は、房総半島とイタリア南部だけだそうである。



日本列島最古のヒトの痕跡とその時代(約11万年前)

  島根県出雲市多伎町砂原 砂原遺跡の11万年前の地層から剥片石器が発掘されており、この時代に属する遺跡は、列島全体で数千ヵ所と推定されている。

  歴史学的には、地球上で打製石器の使用が始まった時代から農耕の開始までの時代を旧石器時代としており、年代的には200万年前に始まる。
また農耕の始まりを新石器時代として遺跡・遺構の観点から日本列島における旧石器時代は約11万年前に始まっていたといえる。
この時代は氷河期に当たり、日本列島は現在より寒冷で、冬季の降雪量が少なかったと考えられている。
北海道では永久凍土やツンドラ、標高の高い地域では山岳氷河が発達し、針葉樹林は西日本まで南下して、大陸から渡ってきた寒冷地で生息する大型哺乳動物(ヘラジカ、ヤギュウ、オーロックス、ナウマンゾウ、オオツノシカなど)を繁殖させることになった。
旧石器時代の人々は、解体場(キル・サイト)や石器群(ブロック)、礫群、炭の粒の集中する遺跡などが、日本列島内で数千ヶ所も発見されているように、これら大型哺乳動物や中・小型哺乳動物を狩猟対象としキャンプ生活を営みながら頻繁に移動を繰り返していたと考えられる。

  最終氷期の約2万年前の最盛期が過ぎると地球規模で温暖化に向かった。最後の氷期である晩氷期と呼ばれる約1万3000年前から1万年前の気候は、数百年で寒冷期と温暖期が入れ替わるほどで、急激な厳しい環境変化が短期間のうちに起こった。
このような気候変化により日本列島は、西南日本から太平洋沿岸伝いに落葉広葉樹林が増加し拡がっていき、北海道を除いて列島の多くが落葉広葉樹林と照葉樹林で覆われる植生の大きな変化を招き、コナラ亜属やブナ属、クリ属など堅果類が繁茂するようになり、狩猟(肉食)者であった旧石器人の生活を大きく変化させる契機となった。

  これら温暖化による植生の変化は、寒冷地生息の大型哺乳動物の生息環境を悪化させ、約1万年前までには、日本列島からこれらの大型哺乳動物がほぼ絶滅してしまった。このため、旧石器人は狩猟により得られた獣肉を主食とするスタイルから、狩猟・漁労に加えて堅果など植物質食料を組み合わせた食習慣へ変化せざるを得なくなった。そしてこの急激な気候の変化による住環境の変化は、環境に対応した道具を次々に考案させ、狩猟・植物採取・植物栽培・漁労の3つの新たな生業体系をもとに生産力が飛躍的に発展させることになる。

  例えば、植物の多くは収穫時期が限られるために貯蔵する必要があり、堅果を食用とするためには加熱・粉砕・煮込みなど加工過程が必要となり、植物質食料の調理・保管器具としての土器の使用が始まったと考えられる。
また、狩猟生活から採集生活への転換は、住環境の変化にも影響を与えた。哺乳動物を狩猟対象としキャンプ生活を営みながら頻繁に移動を繰り返していたが、台地・段丘・丘陵・高原などの見晴らしの良い洪積世の台地縁辺の洞穴や岩陰を住みかとして利用するようになった。
そしてそこには日常生活の場としての拠点遺跡、獲物の解体場遺跡、石器製作場遺跡などの特徴がある。大阪府藤井寺市のはさみ山遺跡の住居はよく知られている。

日本の旧石器時代

  日本列島の旧石器時代(にほんれっとうのきゅうせっきじだい)は、人類が日本列島へ移住してきた時に始まり、終わりは1万6000年前と考えられている。無土器時代、先土器時代ともいう。
  終期については青森県外ヶ浜町大平山元遺跡出土の土器に付着した炭化物のAMS法放射性炭素年代測定暦年較正年代法では1万6500年前と出たことによる。
  日本列島での人類の足跡も12万年前(島根県出雲市多伎町砂原 砂原遺跡)に遡る。この時代に属する遺跡は、列島全体で数千ヵ所と推定されている。 地質学的には氷河時代と言われる第四紀の更新世の終末から完新世初頭までである。ヨーロッパの考古学時代区分でいえば後期旧石器時代におおむね相当する
  日本の縄文時代は19000年前の最終氷期の最寒冷期後の解氷による海水面の上昇「縄文海進」が進んだおよそ1万3000年前からと定義できる。(図は縄文時代の大阪湾)

  しかし、温暖化した気候に併せて木の実の採取や植林の痕跡は見られるようになったものの、これを「農耕」としては定義できておらず、また「牧畜」文化も発見されていないため、日本で新石器時代の語を定義するのはふさわしくないともされている。
日本では紀元前3世紀頃の青銅器が見つかっているが実用ではなく祭祀用として普及しているのみで、また鉄器についても日本での鋳鉄の技術の確立は6世紀頃まで待たなければならず、次時代の定義が他の地域とはやや異なる。これに代わり、日本での編年には土器がよく利用され、「縄文」「弥生」の名称は土器に因んでいる。石器としては縄文時代では打製石器に加え磨製石器の石斧や石棒が現れている。

 

縄文時代

縄文時代は、世界史では中石器時代ないしは、新石器時代に相当する時代である。旧石器時代と縄文時代の違いは、土器と弓矢の発明、定住化と竪穴式住居の普及、貝塚の形成などが挙げられる。

  始期と終期については多くの議論があるが、まず始期に関しては一般的に16,000±100年前と考えられている。終期は概ね約3,000年前 とされる(諸説あり)。
  地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、終期について地域差が大きいものの、定型的な水田耕作や金属器の使用を特徴とする弥生文化の登場を契機とする。その年代については、紀元前数世紀から紀元前10世紀頃までで、多くの議論がある。

沖縄県では貝塚時代前期に区分される。次の時代は同地域では貝塚時代後期となり、貝塚文化と呼ばれる。 東北北部から北海道では他地域に弥生文化が登場した後も縄文時代の生活様式が継承されたため、縄文時代の次の時代を続縄文時代と呼ぶ。


 

弥生時代

  

弥生時代は、日本列島における紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる。
採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。縄文時代晩期にはすでに水稲農耕は行われているが、多様な生業の一つとして行われており弥生時代の定義からは外れる。
  2003年に国立歴史民俗博物館(歴博)が、放射性炭素年代測定により行った弥生土器付着の炭化米の測定結果を発表し、弥生時代は紀元前10世紀に始まることを明らかにした。弥生時代後期後半の紀元1世紀頃、東海、北陸を含む西日本各地で広域地域勢力が形成され、2世紀末畿内に倭国が成立。3世紀中頃古墳時代に移行した。

  「弥生」という名称は、1884年(明治17年)に東京府本郷区向ヶ岡弥生町(現在の東京都文京区弥生)の貝塚で発見された土器が発見地に因み弥生式土器と呼ばれたことに由来する。当初は、弥生式土器の使われた時代ということで「弥生式時代」と呼ばれ、その後徐々に「式」を省略する呼称が一般的となった。

  そもそも弥生時代とは、弥生式土器が使われている時代という意味であったが、弥生式土器には米、あるいは水稲農耕技術体系が伴うことが徐々に明らかになってくると、弥生時代とは、水稲農耕による食料生産に基礎を置く農耕社会であって、前段階である縄文時代(狩猟採集社会)とはこの点で区別されるべきだとする考え方が主流になっていった。

  そのような中、福岡市板付遺跡において、夜臼式土器段階の水田遺構が発見され、従来縄文時代晩期後半と考えられていた夜臼式土器期において、すでに水稲農耕技術が採用されており、この段階を農耕社会としてよいという考えが提出された。

その後、縄文時代と弥生時代の差を何に求めるべきかという本質的な論争が研究者の間で展開され、集落の形態や墓の形態、水田の有無、土器・石器など物質文化の変化など様々な指標が提案された。

  現在ではおおよそ、水稲農耕技術を安定的に受容した段階以降を弥生時代とするという考えが定着している。従って、弥生時代前期前半より以前に(夜臼式土器に代表されるような刻目突帯文土器と総称される一群の土器形式に示された)水稲農耕技術を伴う社会が(少なくとも北部九州地域には)成立していたとされ、従来縄文時代晩期後半とされてきたこの段階について、近年ではこれを弥生時代早期と呼ぶようになりつつある。

  なお土器についた穀物圧痕の研究が進み、稲作技術は、遅くとも縄文時代後期までには列島にもたらされていたことが分かっている。また、水稲農耕の導入についても北部九州の一部地域では縄文晩期前半にまでさかのぼる可能性が指摘されているが、明確な遺構が発見されておらず、推測の域を出ない。

縄文海進と弥生遺跡

縄文海進
  最終氷期が終わって後氷期に移行する時に大きな「寒の戻り」がおこり一時的に氷期のような寒冷な気候になった。この時期はヤンガードリアス期(およそ1万3000年前)と呼ばれ、約10年のあいだに気温が約7.7℃以上下降したということがわかっている。これは氷期から間氷期に移行する時の急激な温暖化によって、北半球の氷床が溶解し、大量の淡水が大西洋に流入して海洋・気候のシステムに大きな影響を与えたためと言われていた。
一方、日本など氷床から遠く離れた地域で海水面は120メートル以上の上昇となり、ピーク時である約6,500年前 - 約6,000年まで上昇が続いた。日本では縄文時代に発生したことから「縄文海進」と呼ばれる。現在はピーク時から海水面は約5メートル低下したといわれる。またピーク時の気候は現在より温暖・湿潤で平均気温が1 - 2℃高かったといわれる。

  この縄文海進により、日本の縄文時代、約7000年前ころに、現在に比べて海面が2~3メートル高くなり、 日本列島の各地で海水が陸地奥深くへ浸入した。。 この時代には日本列島の各地に複雑な入り江をもつ海岸線が作られ、海水の侵入により、それまで陸上の小動物や果実に加え魚介類を含む最終経済への移行を実現したと思われる。これは当時の海岸線と推測される地域に、住居跡や貝塚の跡が見られることより推測される。

弥生遺跡と海岸線
  1974年(昭和49)に東京大学により発掘調査が行われ、丘陵の崖縁に沿う2条の溝が交差して発見された。古い溝の中には貝層が形成され貝層を構成する貝が鹹水産の貝類からなることが判明し、当時はこの貝塚(現在標高20メートル超)の周辺まで海域であったことが推定される。そのかたわらから5個の弥生土器が見つかり、貝層と土器、新しい溝の三者は同一時期に属するものであることが判明した。下図は、武蔵野台地東端付近の弥生遺跡周辺が縄文海進時代想定図である。

この遺跡が、1884年(明治17)に初めて弥生土器が発掘され、場所が不明となっている向ケ岡貝塚である可能性がきわめて高いとの調査結果から、この地(のちに弥生町となった)が1976年(昭和51)に国の史跡に指定される。
弥生時代とは、弥生式土器が使われている時代という意味であったが、弥生式土器には米、あるいは水稲農耕技術体系が伴うことが徐々に明らかになってくると、弥生時代とは、水稲農耕による食料生産に基礎を置く農耕社会であって、前段階である縄文時代(狩猟採集社会)とはこの点で区別されるべきだとする考え方が主流になっていった。その後、その後海面は現在の高さまで低下し、 かつての入り江は堆積物で埋積されて、現在水田などに利用されている比較的広く低平な沖積平野を形成した。

 

  

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